第八弾への反応をたくさんいただけて、感謝しています。
いろいろな反応があって、興味深かったです。
たとえば、「人が自分をどう思うか」はとても気になる性格、という同感の人、
気になるというよりは人に嫌われるのが怖い
(本人曰く「好かれていて当たり前と思っているところがあって、それ以下だと落ち込む」)
という人もあれば、逆に、そういうことは気にならなかったという人も。
この後者の人は「でも、死ぬのは恐怖。苦しんで死ぬのはもっと怖い。」と。
これに似て、「『苦しみにであうこと』が私も怖いかも。
だから、もしかしたら死ぬことより死なれることの方が怖いかも。
苦しんで死ぬなんて、もちろん怖いです。」という人も。
この気持ちはだれにでも共通するものがあると思います。
私も、「苦しみ」はいや。
でも、今までの苦しみがあったから、今の自分があるのかも、とお返事したら、
共感してくれる返事がまた来ました。
ありがとう、共感してくれて。
あと、小さいころから生きづらさを感じていて、若くして日本を「脱出した」人は、
日本のことを「良いところも多々ありますが、イジワルな人、人の不幸を喜ぶ世間、妬みもすごい。」
と表現していました。それを聞いて、私も否定できず、
「日本ってそういう部分もあるよね」と納得できてしまうことは、
ちょっと悲しいことかも。
(日本の精神的風土については、またいつかのトピックにしたいと思っています。)
また、こんなふうに反応してくれた人もいました。
「人と死を恐れなければ豊かな人生になるって、
本気でそうできたら確かにそうかもねと思ったよ。
人はどこかでやはり人を気にしてるから縮こまったりするんだろうね。」
私の記事の意図するところをとてもよく理解して掴んでくれて、ありがたいと思いました。
反応がいろいろあったのはどうしてだろう、と考えていて、一つ気づいたことがあります。
それは、何を恐れるかはその人その人の人生観の一部になっていて、
それが、それぞれの今の生き方につながっているのではないか、ということです。
たとえば、死ぬのが怖ければ、「石橋をたたいて渡る」ように慎重になる傾向があるかもしれません。
それはごく自然なことです。
念には念を入れるから、きっちり一つ一つのことを完成する、
という熱心さにつながっているかもしれません。(私にとっては苦手なことです。)
もし嫌われるのが怖いと思う気持ちが心の奥底にあれば、できるだけよい評価をもらえるように、
仕事を期待されている以上にがんばってしまうこともあるかもしれません。
(私にもその傾向があるのを自覚しています。)
もちろん、それだけが理由でがんばっているのではないのは承知していますが、
そういう深層心理が働いているかもしれない、ということです。
(以上、間違っていたらごめんなさい。ご指摘、よろしくお願いします。)
私の場合、人を恐れる、というのは、日本を出ただけではそのまま変わりませんでした。
香港にいても、日常は日本人学校の日本文化の中でしたから。
まあ、日本全国から集まっていた40人以上の先生方はみなさん個性豊かな方たちで、
私にとっては自分が変わっていることが目立たなくて助かった、というところはありましたが。
そして驚いたことに、日本では見たことも会ったこともないクリスチャンが、
日本人学校には3人もいました!
大きな転機は、その中の一人、八束美和子さん(現在、月城牧師夫人)が私を教会に連れて行ってくれたり、
週一のバイブルスタディを始めて一緒に聖書を読もうと誘ってくれたりしたことでした。
美和子さんに会ってびっくりしたのは、
自分の顔を手でふにゃふにゃにして人に見せて笑わせることができるような人だったということ。
「人を恐れる」というようなことは微塵も考えていないんじゃないか、という人柄だったことです。
「こんな変わった人は、今まで会ったことがない!」というのが、私の美和子さんへの率直な印象でした。
(目くそ鼻くそを笑う、とはこのことかしら。😁
美和子さんは、でも‘鼻くそ’などではなく、正真正銘、いつも心が潤っている素敵なクリスチャンでした。)
一つ年下だけれど、そんな美和子さんを私はすごいと心の中で尊敬し始めました。
美和子さんは教えてくれました。
生きておられる神さまだけを畏れていたら、ほかに何も恐れることはないんだよ、と。
それは、確かに聖書に記されている*ことでした。
それから、即にではありませんが、私の恐れのシフトは徐々に神さまに向かって移っていき
(いつもできるとは限りませんが。何しろ、小さいころからの習慣で、
油断するとすぐ人の目を気にしてしまいます。
でも、そろそろ、きっぱりさよならができたらいいなと思っています)
それがたぶん、私の中のスーパーナチュラルな平安につながっているのかもしれません。
中学を卒業するとき、校長先生に挨拶をしにいき、
卒業アルバムの表紙の裏にサインをお願いしました。
筆で丁寧に大きくしっかりと書いてくださった言葉はひとこと。
「誠実に生きる」
そのときもそのあと何年も、その言葉の本当の意味が、未熟だった私には分かりませんでした。
正直、誠実に生きることに価値を見い出すことができない、どころか、なんとなくつまらなそう、
と感じていた気がします。そのころは。
でも、「神を畏れて生きる」とうことは、「誠実に生きる」ということなんだろうな、
ということが今ようやくわかるようになってきました。
人ではなく、目に見えない神を畏れていくと、たとえ人が見ていなくても、評価してくれなくても、
本当に大切なことを大切なこととしていけるのではないかしら?
人が見てなければ何してもいいんじゃないの、
とちゃらんぽらんに生きていた10代20代では
「誠実に生きる」ことへの魅力がぜんぜんわからなかったけれど、
そういう誠実な生き方に、今は憧れます。
(憧れる、ということは、できるだけその線で生きられたらいい、
ということで、実際は後悔や反省もいっぱい)
こういう自分の内なる変化って、精神的な奇跡って、言ったらいいすぎ?
というわけで、「人への恐れ」は徐々に解決にむかっているのですが、
実は、私にはもう一つ、恐れているものがあります。それは、次回のお楽しみ、ということで。
最後に、一つだけ質問させてもらってもいいでしょうか。
Q あなたは、自分の中の恐れに、どのように対処していますか?
*「主を畏れる人には何も欠けることがない。」詩編34:10
<おまけ>
第3弾で紹介したネトルで、スープを作ってみました。
ただ野菜スープにネトルを加えてハンドミキサーで砕いただけですが、
マイケルにも好評で、嬉しかったです。
美味しく作るコツは、トウモロコシを入れることだ
というのが今日の発見。
どのネトルレシピにも書いてなかったけれど、
思い付きで入れたら、トウモロコシの甘さとネトルがピッタリでした。
でも、ネトルのトゲトゲが怖い人はちょっと勇気がいるかも。
(熱を通すと、トゲトゲは消えますので、ご安心を!😊)
リンゴの木の下のブルーベルを愛でながら、スープを堪能しました。
こんな猫の額の庭だけど、天気がよければお日さまの下でピクニック気分。
ありがたいことです。
輝くWellbeingを!
さゆり